オリンピック・パラリンピックの歴史と意義

オリンピックのシンボルマーク ゴルフライフ

オリンピック・パラリンピックは「スポーツの祭典」としてだけでなく、文化や教育などさまざまな活動があります。「芸術」という種目があった時代もありました。時代の背景などにも焦点を当てながら、オリンピック・パラリンピックの歴史と意義についてまとめたいと思います。

人へ、オリンピックの力

オリンピックは教えてくれる。
華やかな栄光より、ベストを尽くす姿に感動があることを。

オリンピックは教えてくれる。
勝負も言語も国境も超えたものがあることを。

オリンピアンは教えてくれる。
互いの尊敬の中では、メダルの色は些細な違いであることを。

オリンピックには力がある。
人を、社会を、育む力がある。
オリンピアンを通じて、
オリンピックのチカラを、もっと人へ、もっと社会へ。

私たちJOCの使命です。

Contents

古代オリンピック(紀元前)

オリンピック・パラリンピックは多くの人々の想いと努力によって受け継がれてきました。オリンピックの始まりは、今から約2800年も前の古代ギリシャにさかのぼります。この頃のオリンピックを「古代オリンピック」と言います。古代オリンピックは、平和への祈りからはじまりました。古代オリンピックは4年に1度、オリンピアという聖地(都市)で開催されていたため、これが「オリンピック」という名前の由来になっています。

紀元前8世紀ごろ、古代ギリシャの国々は戦争やえき病に苦しんでいました。古代オリンピックがはじまった背景には、そんな苦しみから逃れ、平和を願った人々の想いがあると言われています。競技会は、ゼウス神にささげる聖なる祭典として、戦争を3か月間休止して、ギリシャのオリンピアで行われました。そして4年に1度、約1200年もの間つづけられたのです。

休戦の考えは近代に受け継がれ、オリンピックは「スポーツの祭典」であり「平和の祭典」として開催されています。

近代オリンピック

欧米列強各国が植民地獲得競争(帝国主義)に突き進んでいた19世紀末、フランスのピエール・ド・クーベルタンは、「スポーツと芸術を通じて調和のとれた人間を育て、世界平和に復興する」ことを提唱し、古代に行われていたオリンピックを復興してオリンピックの理念(オリンピズム)の普及を目指しました。日本では、教育者であり柔道家の嘉納治五郎氏が中心になりオリンピズムの普及に努めました。

ピエール・ド・クーベルタン

ピエール・ド・クーベルタン
ピエール・ド・クーベルタン 本文中
  • 1863年~1937年
  • 近代オリンピックの父
  • 31歳の若さで、各国にオリンピック復興を提唱
  • IOC会長を約30年務める
  • オリンピックの精神を広めた
  • 教育者の枠にとどまらず、社会活動家として広く活躍

フランスの貴族に生まれたクーベルタンは、軍人になることを期待されますが、教育の道にすすみました。そしてイギリスを訪れた時、スポーツが青少年を成長させる様子を見て心をうたれます。教育にスポーツを取り入れれば、心身の調和のとれた人間が育ち、やがて世界の平和につながる。そう確信したのです。単なる競争、遊びだと考えられていたスポーツを、教育と結びつける発想は、当時、画期的でした。その考えを実現させるため、クーベルタンは古代オリンピックを国際的な規模でよみがえらせ、世界に広げていきます。それが、近代オリンピックです。

嘉納治五郎

嘉納治五郎
嘉納治五郎 本文中
  • 1960年(万延元年)から1938年(昭和13年)
  • 兵庫県生まれ
  • 日本オリンピックの父
  • 日本でオリンピック・ムーブメントを広めた教育者
  • アジア初のIOC委員
  • 日本でのオリンピック開催に向けて精力的に活動
  • 柔道の創始者「柔道の父」

クーベルタンは欧米各国だけで構成された国際オリンピック委員会(IOC)にアジアの代表として日本の参加の望んでいました。そこで白羽の矢が立ったのが嘉納治五郎です。クーベルタンの意を受けた駐日フランス大使・ジェラールが嘉納のもとを訪ねました。嘉納はクーベルタンの思いに賛同し、快諾しました。

嘉納は柔道(講道館修道)の創始者で、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の校長を務めるなど、熱心な教育者でもありました。体育教育が心身を強くし、人々の幸福につながると信じた嘉納は、日本に体育を広める一方、留学生を積極的に受け入れて海外へもその考えを伝えました。こうした信念は、「スポーツを通して心身の調和のとれた青少年を育成し、世界平和の実現に貢献する」というオリンピックの考えと共通していました。やがて、嘉納はアジア初のIOC委員として、日本のオリンピック・ムーブメント(※1)を推進していくことになります。

(※1)オリンピック・ムーブメント
「スポーツを通して若者を教育し、国境を越えて平和でより良い世界の構築に貢献する」というオリンピズムの理念を実現していくために、「フェアプレーの推進」「差別の撤廃」「アンチ・ドーピング(☆)活動」「スポーツと文化・教育の融合」などさまざまな活動が世界中で行われています。

(☆)世界アンチドーピング規定(World Anti-Doping Code)は、クリーンなスポーツに参加するアスリートの権利を譲り、世界中のアスリート、スポーツに参加するすべての人が公平、公正、そして平等にスポーツに参加するための全世界・全スポーツ共通の約束事です。
アンチ・ドーピング(Tokyo2020)

青少年のためのユースオリンピック。クーベルタンの理念・考えのひとつ、「青少年の教育」を広げるオリンピック・ムーブメントに則っている。

大日本体育協会(現・日本スポーツ協会)の創立

嘉納は、国民一般の体育・スポーツの普及とともに、日本代表選手のオリンピックへの派遣を目指して、「大日本体育協会」を創立します。そして、日本が1912年ストックホルム大会に参加するため、羽田運動場で予選会を行いました。

オリンピックへの初参加

1912年(明治45年)ストックホルム大会で、短距離走の三島弥彦(みしまやひこ)とマラソンの金栗四三(かなくりしそう)の2名が日本初、そしてアジア初のオリンピック出場を果たしました。国際大会に日本人選手が参加することに日本中がわき立ち、金栗は渡航費の支援金という形で郷里や同窓生からもサポートを受けました。

パリ大会への選手団派遣と、日本初の本格的な競技場建設

1924年(大正13年)パリ大会の前年に関東大震災が発生し、日本の参加が危ぶまれましたが、嘉納は「震災からの復興の意気を示すべき」と主張し、参加が実現しました。同年、嘉納の提案によって、東京に日本初の本格的な陸上競技場「明治神宮外苑競技場」が竣工されました。この事は、1940年東京大会の招致活動の後押しとなりました。

幻の東京オリンピック
嘉納の努力により、1936年のIOC総会で1940年東京大会開催が決まりました。しかし、1938年に嘉納が逝去し、また日中戦争の長期化により大会を返上。嘉納の悲願だった東京オリンピックは幻となりました。その後、多くの人々の想いと努力で1964年に東京オリンピックが実現しますが、そこに至るまでには実に26年もの歳月がかかったのです。

パラリンピック

近代オリンピック創始から約50年、イギリスでパラリンピックの原点となる大会が行われました。1944年から戦争で傷ついた兵士の治療にあたっていた医師であるグッドマンが、リハビリテーションにスポーツを導入し、1948年、ロンドンオリンピック開会式と同じ日に、自らの病院で車いす患者によるストーク・マンデビル大会(アーチェリー大会)を開催。この大会がのちに、パラリンピックへと発展しました。現在は1989年に創設されたIPC(国際パラリンピック委員会)が主催し、4年に一度開催しています。

ルードウィッヒ・グットマン
  • パラリンピックの父
  • 英国ストーク・マンデビル病院の医師として傷痍軍人の治療にあたった
  • 患者が社会復帰するためにスポーツの重要性に気づき、患者のための競技大会を開催
  • この大会が、のちにパラリンピックに発展し、さらにオリンピック開催年に、同都市で開催されるようになった
  • 「失われたものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」という理念を後世に遺した
中村裕
  • 日本パラリンピックの父
  • 医学博士。英国ストーク・マンデビル病院に留学して、グットマンの教えを受ける
  • 1964年の東京で国際身体障碍者スポーツ大会の実現に向け、支援者や資金の調達などで尽力(この大会はのちに第2回パラリンピックに認定)
  • 1964~1980年まで5回のパラリンピックで選手団長を務めた
  • 「保護より機会を!」の理念の下、障害者が働き生活する施設「太陽の家」を創設

”保護より機会を!”何度聞いてもいい言葉です。

パラリンピックの持つ価値

障がい者の治療・リハビリからスタートしたパラリンピック。現在では、スポーツを通して障がい者に対する社会。意識の向上を促す重要な役割を担っています。そこは「誰もが平等に能力を発揮し活躍できる場」。つまりパラリンピックには「人々が平等に活躍できる社会をどうつくるか」という課題に対するたくさんのヒントがあるといえます。

パラリンピック・ムーブメント(※2)の究極の目標

パラスポーツを通じて障がいのある人も含めたインクルーシブな社会(※3)を創出する

(※2)パラリンピック・ムーブメント
パラリンピックスポーツを通して発信される価値やその意義を通して人々に気づきを与え、より良い社会をつくるための社会変革を起こそうとするあらゆる活動のこと。パラリンピアンや大会の関係者だけでなく、社会変革を起こそうとする人・団体すべてが担います。

「笑顔とメダルラッシュに沸いた」アジアユース大会(NHK)

アジアユースパラ競技大会は、若い選手にとっては貴重な国際経験を積む機会であり、パラリンピックへの登竜門として現在世界で活躍している多くの選手たちが参加している。

(※3)インクルーシブな社会
「インクルージョン」は、”包括・包含”、”受け入れる・活かす”という意味を持ちます。さまざまな違いを持つ一人ひとりが、平等に受け入れられる環境です。

パラリンピックの価値

IPC(国際パラリンピック委員会)は、パラリンピアンたちに秘められた力こそが、パラリンピックの象徴であるとし、下記の価値を重視しています。

勇気:マイナスの感情に向き合い、乗り越えようとする精神力(Courage)

強い意志:困難があっても、諦めず限界を突破しようとする力(Determination)

インスピレーション:人の心を揺さぶり、駆りたてる力(Inspiration)

公平(☆):多様性を認め、創意工夫すれば、誰もが同じスタートラインに立てることを気づかせる力(Equality)

(☆)IPCの英語表記は「Equality」であり、その一般的な和訳は「平等」ですが、「平等」な状況を生むには、多様な価値観や個性に即した「公平」な機会の担保が不可欠です。そして、そのことを気づかせてくれるのがパラリンピックやパラアスリートの力である、という点を強調するため、IPC承認の下、あえて「公平」としています。

1964年 第18回東京大会と第2回パラリンピック開催

アジアで初めてのオリンピックが実現。東海道新幹線、東京モノレール、首都高速道路などの交通網も整備され、戦後の復興に努力してきた日本人に希望と勇気を与えました。そして第2回パラリンピックは、すべての障がい者に開かれた大会を目指し、車いす使用者による「パラリンピック」と、すべての身体障がい者を対象とした「国内大会」の2部で開催。パラリンピックでは、日本を含め21か国378名の選手が9競技で競い合いました。

東京1964パラリンピックは「2部制」で実施された?

パラリンピックの前身、ストーク・マンデビル大会は参加選手を、車いすを常用する脊髄損傷者に限っていました。しかし、1964年の東京での開催にあたり、中村裕ら主催者である日本側は、「さまざまな障がい者が参加する大会に」と願い、働きかけました。その結果、東京大会は第1部を従来型の「第13回国際ストークマンデビル大会」(第2回パラリンピック)、第2部を「国内大会」という2部制で実施されました。こののち、1976大会で初めて障がい者と四肢の切断者が参加して以降、徐々に脳性まひ者や知的障がい者なども加わり、パラリンピックは現在、「さまざまな障がい者が参加する大会」へと発展しています。なお、1995年に国際ろう者スポーツ委員会(ICSD)がIPCより脱退したこともあり、パラリンピックでは現在、聴覚障がいクラスは実施されていません。ろう者のための国際的なスポーツ大会としては、デフリンピックが開催されています。

悲願の東京1964大会

第二次世界大戦で敗戦した日本は、戦後すぐにはオリンピックへの出場が認められませんでした。しかし、関係者の努力により1951年にIOCに復帰、ヘルシンキ1952大会から出場できるようになりました。幻となった東京オリンピックの返上から26年。1964年に実現した東京オリンピックは、日本国民にとって悲願だったのです。

1972年~ オリンピック・パラリンピックと日本

東京1964大会後、1972年には札幌冬季大会(日本初の冬季オリンピック)、1998年には長野冬季大会(2度目の冬季オリンピック・アジア初の冬季パラリンピック)が開催され、多くの選手が活躍しました。

札幌1972冬季オリンピック

オリンピック史上初の全競技カラー放送となった札幌1972冬季大会。テレビの最高視聴率は53.1%。選手の活躍に日本中が沸き返りました。

長野1998冬季オリンピック・パラリンピック

参加国・地域数・参加選手数ともに札幌1972冬季大会のほぼ2倍の規模となった長野1998冬季大会。一校一国運動(※2)など、その後の大会にも引き継がれるレガシーを残しました。パラリンピックは、アジアで開催された初の冬季大会として注目を集めました。

(※2)「一校一国運動」
長野1998冬季大会では、市内の各小学校と特別支援学校が担当する一つの国を決め、様々な交流を深めました。この活動はその後も開催都市で続けられているオリンピック・ムーブメント(※2)の代表的な取り組みです。

東京2020大会の開催が決定

ー2013年9月、ブエノスアイレスで開催されたIOC総会で決定-

オリンピック・パラリンピックはスポーツを通して人々に感動と勇気を与えてくれるだけでなく、街を変え、社会を変えていく力があります。多くの人がつないできたオリンピック・パラリンピックを、今度は私たち一人ひとりが継承し未来へつなげていく時です。

東京が世界で初めて!2回目のパラリンピックを開催
東京1964大会に続き、2020年、東京は世界で初めて2回目のパラリンピック(夏季大会)を開催する都市となります。次の時代の共生社会をどう描いていくのか、東京2020パラリンピックには世界中から大きな期待が寄せられています。
メダルの豆知識
現在ではオリンピック勝者に授与される最も栄えあるものは金メダルですが、近代オリンピック開催当初から金メダルが授与されていたわけではありません。金銀銅メダルの授与が始まったのはセントルイス1904大会からです。1位金、2位銀、3位銅の概念が一般的になるのは第二次世界大戦終結後になってのことです。それまでのオリンピック勝者に授与されるものの代名詞は、古代オリンピックと同じくオリーブの載冠でした。

聖火リレー

オリンピック聖火リレーとは

ギリシャ・オリンピアの太陽光で採火された炎を、ギリシャ国内と開催国内でリレーによって開会式までつなげるものです。オリンピックのシンボルである聖火を掲げることにより、平和・団結・友愛といったオリンピックの理想を体現し、開催国全体にオリンピックを広め、きたるオリンピックへの関心と期待を呼び起こす役目を持っています。

初の日本開催となった1964年東京大会は、日本で初めての聖火リレーとなりました。沖縄に到着した聖火は、鹿児島、宮崎、北海道を起点とした4コースに分かれ、開催地・東京を目指しました。手から手へ、日本中で聖火をつないだランナーの数は10万713人。思いをひとつに、6755キロメートルの地上距離をリレーしてゆきました。

最終ランナーを務めた坂井義則(さかいよしのり)は、原爆が投下された日に広島県で生まれた陸上競技選手です。世界中が見つめるなか、坂井がメインスタジアムの聖火台への階段を駆け上がり点火する様子は、戦後復興を果たした日本の平和を象徴する感動的なシーンとなりました。

東京2020オリンピック聖火リレー
〈コンセプト〉東京2020オリンピック聖火リレーコンセプトは、「Hope Lights Our Way(英語)/希望の道を、つなごう。(日本語)」です。支えあい、認めあい、高めあう心でつなぐ聖火の光が、新しい時代の日の出となり、人々に希望の道を照らしだします。
〈ルート〉東京2020オリンピック聖火リレーは、2020年3月26日に福島県をスタートし、全国47都道府県を121日間(移動日を含む)で巡ります。
【ルートの特徴】
①日本全国の多くの人が聖火リレーを見ることができるルート
②日本各地の魅力あふれる場所を訪問するルート
〈復興の日〉「復興の火」は復興オリンピックの趣旨を踏まえ、東京2020オリンピック聖火リレーの一環として実施されます。2020年3月20日から3月25日までの間、宮城県、岩手県、福島県の順番で各2日間「復興の火」を展示します。

パラリンピック聖火リレーとは

「パラリンピック聖火はみんなのものであり、パラリンピックを応援するすべての人の熱意が集まることで聖火を生み出す」というIPCの理念に基づいて開催されます。聖火リレーで用いられるパラリンピック聖火は、イギリスのストーク・マンデビルと開催国内各地の複数箇所で採火される炎から生み出されます。

東京2020パラリンピック聖火リレー
〈コンセプト〉東京2020パラリンピック聖火リレーは、「Share Your Light(英語)/あなたは、きっと、誰かの光だ。(日本語)」をコンセプトに、目前に迫ったパラリンピックへの期待や祝祭感を最大限に高めます。
〈スケジュール〉採火イベント、聖火ビジットなどの「聖火フェスティバル」を、8月13日から17日まで43都道府県で実施します。また、8月18日から21日まで、パラリンピック競技開催都県(静岡、千葉、埼玉、東京)で、採火式・聖火ビジット・聖火リレーを実施します。そして、47都道府県から出立した火を、8月21日に東京で集火し、8月22日~25日、開催都市聖火リレーを実施します。

オリンピックの意義

「オリンピズム」とは

19世紀の末、クーベルタンによって提唱された近代オリンピックには「オリンピズム」という理念があります。オリンピズムは、スポーツ競技だけでなく健全な若者を育て平和な社会づくりを目指す”願い”です。

  • スポーツを通して若者がフェアプレーの精神のもとに心と体を磨く
  • 文化や国の違いなどさまざまな違いを乗り越えてお互いを理解する
  • 友好を深めて、世界の平和に貢献する
「参加することに意味がある」に込められた想い
クーベルタンの言葉として有名な「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく参加することである」は、実は彼の創作ではなく、ロンドン1908大会中に礼拝のためにセントポール大寺院に集まった選手を前に、主教が述べた言葉でした。クーベルタンはこの言葉に感動し「人生にとって大切なことは成功することではなく努力すること」と語り、オリンピックの理想を表現する名句として知られるようになりました。

「オリンピック憲章」とは

IOC(国際オリンピック委員会)によって採択されたオリンピズムの根本原則、規則、付属細則を成文化した「オリンピック憲章」があります。オリンピック憲章はオリンピック・ムーブメント(上記※2を参照)の組織、活動、運用の基準であり、かつオリンピック競技大会の開催の条件を定めるものです。なお、IOC総会において「アマチュア選手に限る」とされていた参加規程が1974年に削除されたり、性別変更についても2015年に、それまで求められていた性別適合手術を条件から外すというガイドラインが変更されるなど、時代の流れに即してオリンピック憲章の中身は改定されています。これまで60回を超える改定がなされています。

私たちの社会が抱えているさまざまな課題。それは同時に、オリンピックの課題でもあります。平等で平和なより良い社会に向かって、オリンピックは常に進化してきました。

女性の地位向上、人種・宗教などにもとづく差別、経済格差、性的指向への偏見や差別、難民問題など、時代と社会の変化の中で、取り組むべき課題は次々と生まれます。すべてを解決できるわけではありませんが、スポーツの力を信じ、課題と向き合うことで、オリンピックは進化しています。

大会後も残るものがある開催都市

オリンピックは、大会が行われる都市に大きな影響をもたらします。良い影響を与えられる一方で、残念ながら悪い影響を与えうることも事実です。そのため21世紀に入り、オリンピックレガシー(遺産)という考え方が生まれました。交通インフラや競技施設などの形あるレガシーだけでなく、市民スポーツの普及や、多様性、国際理解につながる文化活動など、形のないレガシーもあります。

オリンピックを行うことで、開催国と開催都市に何を残せるか、残すべきか。オリンピックの開催都市を決定するにあたり、事前にその考えを提示することになっています。

創造性を発揮する。オリンピック

かつてオリンピックには「芸術競技」がありました。建築・彫刻・絵画・文学・音楽の5部門で行われたこの競技は、肉体と精神の向上を目指したクーベルタンの発案でした。やがて正式競技ではなくなりましたが、オリンピックは今でも、創造性を発揮する場であり続けています。

開催都市は、育んできた文化をいかし、新しい芸術表現を世界に発信します。オリンピックエンブレムをはじめ、ポスターやマスコット、文化プログラム、開会式での踊りや音楽、衣装など…。世界中が注目する人類最大の祭典だからこそ、オリジナリティあふれる挑戦がそこにはあるのです。

オリンピックのルールづくり

国、地域、民族、宗教の違い。オリンピックには、さまざまな人々が参加します。だからこそ、参加する選手たちが平等に競い合うために、あらゆる違いを超えた共通のルールをつくることが必要です。そしてそのルールづくりに、世界中が力をあわせて取り組まなくてはなりません。大会をとりおこなう国際オリンピック委員会(IOC)と、国内オリンピック委員会(NOC)、国際競技連盟(IF)、国内競技連盟(NF)などの組織が強いネットワークで結びつくことで、世界共通のルールがつくりだされています。

IOC(国際オリンピック委員会)
オリンピック競技を主催し、スポーツによる平和な社会の実現を目指して世界のスポーツ競技をまとめる組織。

NOC(国内オリンピック委員会)
IOCに所属し、各国・地域ごとの各競技団体をまとめ、オリンピックへ参加する選手団を編成、派遣する組織。

IF(国際競技連盟)
IOCに所属し、それぞれの競技ごとに国際ルールを定め、オリンピックでの競技や世界選手権大会などを主催・運営する組織。

NF(国内競技連盟)
NOC、IFに所属し、国内の各競技を統括する唯一の団体として、その普及活動と国内選手権などを主催・運営する組織。

シンボルマーク

オリンピックシンボルは団結のしるし

1914年、クーベルタンにっよって考案されたのがオリンピックシンボルです。5つの輪は五大陸を表しており、世界中の人々がオリンピックを通して友情を育み、協力し合って結ばれることを表現しています。

オリンピックのシンボルマーク

オリンピックシンボルの色

オリンピックの色は、青、黄、黒、緑、赤の5色に、旗の地の白を加えた6色。これらの色で世界の国々の国旗がほとんど描けることから、「世界は1つ」との意味が込められています。オリンピックが目指しているのは、世界中の選手が平和を願って集まり、友好を深めること。大切なのは、勝利を目指して努力を重ねたライバルが、互いにベストを尽くし、互いに成長することなのです。オリンピックには、「スポーツを通して心と体を健全にし、国や文化の違いを超え、友情とフェアプレーの精神でお互いを理解し、世界平和に貢献する」という理念があります。

オリンピアードとは

オリンピックが開催される年からの4年間を「オリンピアード」と言いいます。競技大会が開催されている期間だけでなく、前の大会から受け継ぎ次の大会に向けて、オリンピック・ムーブメントを中心的に推進する期間、と位置づけられています。東京2020大会のオリンピアードは2020年1月1日から2023年12月31日までとなります。

オリンピックは国ではなく「都市で開催される」のはなぜ?

サッカーやラグビーなどのワールドカップや世界選手権と違い、オリンピックは「都市」での開催が特徴です。それは「スポーツは国家権力や人種、宗教の枠を超えた自由なものだから、国の情勢に影響されずに開催していこう」という考えからきています。しかし、現状はなかなか理想通りにはなっていません。各国の政治情勢などによってボイコットなどが起こっていることも事実です。クーベルタンの目指した「世界の平和に貢献する」ことを目指し、私たちはこれからも努力していかなければなりません。

3つの曲線からなるパラリンピックシンボル

パラリンピックシンボルは「スリーアギトス」と呼ばれ、赤、青、緑の3色の曲線で描かれています。「アギト」はラテン語で「私は動く」を意味し、困難なことがあっても諦めずに、限界に挑戦し続けるパラリンピアンを表現しています。

パラリンピックのシンボル

パラリンピックシンボルの色

パラリンピックシンボルに使われる赤、青、緑は、世界の国旗で最も多く使用されている色を採用。中心を取りまく3つのアギトは動きを象徴し、競技のために世界中から選手を呼び集めるというパラリンピック・ムーブメントの役割を象徴しています。現在のデザインは3代目で、アテネ2004大会の閉会式から使われています。

オリンピック・パラリンピックはなぜ4年に1度なのか
争いが絶えなかった古代ギリシャで、休戦を促すために4年に一度競技大会を開いたのが古代オリンピックの始まりです。当時の4年を一周期とする古代ギリシャの暦にならって、現在も4年に一度開催されています。

オリンピックと平和

これまで多くの人が、クーベルタンの唱えた「世界平和に貢献するオリンピック」に向けて努力してきました。しかし、その歩みはまだ途中にあります。

古代オリンピックの休戦協定

古代オリンピックでは開催期間の直後3か月間、武器を持つことを禁止し選手や旅人の安全を確保。クーベルタンはこの考えを引き継ぎ、「平和の祭典」としてのオリンピック復興を唱えました。しかし、クーベルタンの時代に休戦協定は実現できず、その後も政治の影響を受けたオリンピックは数多く存在しました。

政治の影響を受けたオリンピック
  • ベルリン1916大会:第一次世界大戦のため中止
  • 東京1940大会:日中戦争のため返上
  • ヘルシンキ1940大会:ソ連のフィンランド侵攻により中止
  • ロンドン1944大会:第二次世界大戦のため中止
  • メキシコシティー1968大会:市民による反政府集会が軍などに鎮圧され死者を出した(トラテロルコ事件)
  • ミュンヘン1972大会:イスラエル選手団が襲われるテロにより大会が一時中断
  • モントリオール1976大会:アフリカ諸国20か国以上がボイコット
  • モスクワ1980大会:ソ連のアフガニスタン侵攻に反発して西側諸国等50か国以上がボイコット
  • ロサンゼルス1984大会:前回大会の報復のため東側諸国16の国と地域がボイコット

国連総会で「オリンピック休戦決議」採択

オリンピックに参加する国と地域の数は、増え続けてきました。けれども開催が中止された年や、参加数が激減した年もあります。なぜでしょうか?それは、第一次世界大戦、第二次世界大戦、そして東西冷戦による国際社会の対立などが原因です。

オリンピックは、世界で絶えることがなかった争いと向き合いつづけてきました。大会期間中の戦争や武力活動を停止する「オリンピック休戦」はスポーツの持つ力で紛争のない世界の実現を目指す活動で、オリンピック・パラリンピック開催期間中の休戦を呼びかけます。1992年から、「オリンピック休戦」は提唱され、1993年、国連総会で初めて「オリンピック休戦決議」が採択されました。その後、毎夏冬大会の前年の国連総会でオリンピックの休戦決議が採択される習わしになっています。また、その他にも平和に貢献するための活動が行われています。

「平和の祭典」としてのオリンピック・パラリンピックの価値を一人ひとりが考えていくことが大切だといえます。

スタンディングオベーション!難民選手団を温かく包んだ大歓声ーリオ五輪開会式ー(国連UNHCR協会)

リオデジャネイロ2016大会で史上初めて難民選手団が結成されました。出身国ではなくオリンピックの旗を持って入場行進した選手団に大きな歓声と拍手が起こりました。

1920年アントワープ大会(第7回)

第一次世界大戦(1914年~1918年)後、国土が荒れ果て、苦難に直面していたベルギー国民を勇気づけるため、1920年アントワープ大会(第7回)が開催されました。過去最多の国と地域、選手が参加するなど世界が、国際平和を掲げるオリンピックを必要としていたのです。

参加国・地域数 参加選手数
1912年ストックホルム大会(第5回) 28 2407
1916年大会中止(第6回)
1920年アントワープ大会(第7回) 29 2622

1948年ロンドン大会(第14回)

第二次世界大戦(1939年~1945年)後、イギリスは世界中が苦しんでいる時だからこそ、近代スポーツ発祥の地として先頭に立つべきと考え、開催地を引き受けました。イギリスに各国が惜しみない協力をしたことでロンドン大会が開催されたことにより、この大会は「友情のオリンピック」と称されています。

参加国・地域数 参加選手数
1936年ベルリン大会(第11回) 49 3963
1940年大会中止(第12回)
1944年大会中止(第13回)
1948年ロンドン大会(第14回) 59 4104

1988年ソウル大会(第24回)

1980年モスクワ大会(第22回)は、東西冷戦(1945年~1989年)でソ連と対立する西側諸国などが大会をボイコットし、その報復に東側諸国は1984年ロサンゼルス大会(第23回)をボイコットしました。ベルリンの壁が崩壊し冷戦終結へと向かうソウル大会では、対立を乗り越え、多くの国と地域が参加したのです。

参加国・地域数 参加選手数
1980年モスクワ大会(第22回)(西側諸国の不参加) 80 5179
1984年ロサンゼルス大会(第23回)(東側諸国の不参加) 140 6829
1988年ソウル大会(第24回) 59 8397

次の開催都市につなぐ「フラッグハンドオーバーセレモニー」

フラッグハンドオーバーセレモニーとは、オリンピックフラッグ・パラリンピックフラッグを次の開催都市に引き継ぐセレモニーです。セレモニーで引き継がれたフラッグは次の開催都市が4年間保管し、オリンピック・パラリンピックの精神が継承されていくのです。

2016年リオ大会のフラッグハンドオーバーセレモニー

オリンピックフラッグは、リオ市のパエス市長からIOCのバッハ会長を経て、小池都知事へと引き継がれました。

パラリンピックフラッグは、リオ市のパエス市長からIPCのクレイバン会長(当時)を経て、小池都知事へと引き継がれました。

東京2020オリンピック・パラリンピック フラッグツアー
オリンピックフラッグとパラリンピックフラッグが日本全国を回る「東京2020オリンピック・パラリンピック フラッグツアー」。2016年10月から2019年3月にかけて、都内全区市町村および全都道府県を巡回しました。

3つのありがとう

リオ2016大会では、日本の子どもたち1万人以上による人文字の動画を紹介。日本語、英語、フランス語、ポルトガル語で、3つの「ありがとう」を伝えました。

1.東日本大震災で世界の人々からいただいた支援に対しての”ありがとう”
2.リオデジャネイロへ素晴らしい大会を開催してくれたことへの”ありがとう”
3.東京を開催都市として選んでくれたことへの”ありがとう”

”ありがとう”の人文字を撮影!フラッグハンドオーバーセレモニー(Tokyo2020)

オリンピアンたちのエピソード

愛馬のために下した途中棄権という決断

「自分は馬の使い方が下手だとつくづく感じた。久軍には気の毒なことをした」

1932年ロサンゼルス大会で、城戸俊三は愛馬の「久軍(きゅうぐん)」とともに馬術の耐久レースに参加しました。50個の障害を越えながら30km以上を走る、過酷なレース。残る障がいはあと1つとなったそのとき、驚く観客の目の前で、城戸は突然下馬します。馬齢19歳という高齢の久軍の荒い呼吸や激しい発汗から、このままでは久軍が死んでしまうと判断したためでした。棄権後、謝るかのように城戸の肩に顔を埋めた久軍。その姿に、当時の審査員も涙したといいます。後にアメリカ人道協会は記念碑を建て、この城戸の行為を讃えた一文を刻みました。

城戸俊三(きどしゅんぞう)
1889~1986/1932年ロサンゼルス大会 馬術/総合馬術競技。
宮城県出身。陸軍士官学校卒業の騎兵将校。1928年アムステルダム大会、1932年ロサンゼルス大会に出場。その後宮内省に入省し、昭和天皇、皇太子明仁(太上天皇)の乗馬を指導。日本馬術連盟常務理事を歴任。

柔道の精神を受け継いだオランダの金メダリスト

「これは、日本が獲った、もうひとつの金メダルです」

1964年東京大会。日本は柔道の全階級金メダル制覇を目指していました。アントン・ヘーシンクは、それを無差別級で阻み、見事金メダルを獲得します。勝利の瞬間、祝福の気持ちからオランダの関係者が土足のまま畳に上がろうとしました。しかし、ヘーシンクはそれを制止します。「畳は神聖な場であり、対戦相手とは、互いに心技体を高めあっていく仲間である。勝ってもなお、対戦者に敬意を払う」という精神を学んでいたのです。その後の会見でヘーシンクは、自らのメダルを「日本が獲ったもうひとつの金メダル」と語りました。当初東京大会のみの予定だったにもかかわらず、1972年ミュンヘン大会以降は公式競技となった柔道。ヘーシンクの言葉は、この金メダルをきっかけに柔道が国際競技として広く普及し、世界に愛される競技になったことを意味していたのです。

アントン・ヘーシンク
1934~2010/1964年東京大会 柔道/男子 無差別級 金。
オランダ、ユトレヒト出身。14歳より柔道を始め、オランダ柔道チームの指導者であった道上伯に見初められ才能を開花させる。東京大会で柔道をお家芸としていた日本が最も重要視していた無差別級で日本代表、神永昭夫を破った時は、日本にとって計り知れない衝撃をもたらした。

フェアプレーを重んじた若きサムライたち

「グラウンドはサッカーだけをやる所ではない。人間としての修練の場である」

サッカー男子日本代表チームのコーチ、デットマール・クラマーは、1960年の就任から徹底的な人間教育を重んじました。クラマーの退任後、その教えを胸に1968年メキシコシティ大会に出場した日本代表。準決勝で大敗したのちに迎えた3位決定戦は、開催国メキシコとの対戦でした。日本は前半に2点を先制し、迎えた後半。競技場内のメキシコへの声援は、やがて日本への声援へと変わっていきました。日本の粘り強い守備とクリーンなプレーが、観衆の心を動かしたのです。そのまま2-0で勝利し、日本代表チームはアジア勢初の銅メダルを獲得。ユネスコは、ルールを守りラフなプレーがなかったこと、そして競技場外における優れたマナーも模範とすべきだと評価し、フェアプレー賞をおくりました。

サッカー・男子日本代表
1968年メキシコシティ大会 サッカー/男子 銅。
メキシコシティ大会では、長沼健監督、岡野俊一郎コーチのもと、釜本邦茂をトップに杉山陽一、松本育夫を左右に配する攻撃的布陣で大会を迎えた。日本オリンピック史上初、そして50年たっても超えられぬ、日本男子サッカー唯一のオリンピックのメダルを獲得した。

国の対立を超えて愛された馬上の「バロン」

「素晴らしいものは素晴らしい。たとえ敵国であっても」

日米関係が冷え込み始めていた、1932年ロサンゼルス大会当時。馬術日本代表の西竹一と愛馬ウラヌスによる美しい競技は現地で人気を博し、新聞に大きく取り上げられました。世界が戦争に向かう時代に、アメリカの観客は対立国の軍人である西に惜しみない拍手を拍手を送ったのです。太平洋戦争末期、軍人として硫黄島にいた西。米兵が彼に敬意を示し、「オリンピックの英雄、バロン(男爵)西。君を失うのはあまりにも惜しい」と投稿をよびかけた逸話からも、彼がいかにアメリカ国民から愛されていたかがうかがえます。

西竹一
1902~1945/1932年ロサンゼルス大会 馬術/障害飛越競技 金。
東京府東京市麻布生まれ。学習院初等科で校長、乃木希典に影響を受け陸軍の軍人となる。1932年ロサンゼルス大会で愛馬ウラヌスと共に馬術に出場。「オリンピックの華」と讃えられ勝者には敬意が払われる障害飛越で優勝し、日本馬術史上初の金メダリストとなる。華麗な飛越を披露した西は「バロン(男爵)西」と呼ばれ称賛された。太平洋戦争中、硫黄島の戦いで餓死。

足袋をはいた日本初のオリンピアン

54年と8ヶ月6日5時間32分20秒

1912年ストックホルム大会の男子マラソンに出場した金栗四三。彼がオリンピック出場を決意したのは、東京高等師範学校在学中のことでした。きっかけは、当時校長だった嘉納治五郎の言葉、「日本スポーツ界の黎明の鐘となれ」。その言葉通り日本人初のオリンピック選手として走り出した金栗でしたが、無念にも熱中症に倒れてしまいます。しかし彼はこのとき、棄権の意思を運営側に伝えていませんでした。後年の功績を称えられた金栗は再びストックホルムに招かれ、55年近くかけて遂にゴールテープを切ったのです。この時の記録は、オリンピック史上最も遅いマラソン記録として知られています。

金栗四三
1891~1983/1912年ストックホルム大会 陸上競技/男子マラソン。
熊本県玉名郡春富村(現・和水町)出身。日本人初のオリンピック出場者。東京箱根間往復駅伝競走(通称:箱根駅伝)の創設にはじまり、晩年は日本マラソン界の発展に大きく寄与し、日本における「マラソンの父」と称される。有名な言葉に「体力、気力、努力」がある。

ライバルの背中を押した誇り高きスポーツマンシップ

ともに、より高みへ。

1936年ベルリン大会、男子走り幅跳び。アメリカのジェシー・オーエンスは、2度のファールで予選落ちの危機に陥っていました。もう後がない。そんな彼を救った人物は、ドイツの優勝候補でライバルでもあったルッツ・ロングでした。ロングは当日吹いていた強い風の影響を見抜いていました。そしてオーエンスに、踏み切りのスタート位置を下げるように助言します。その結果、本来の力を発揮したオーエンスは、金メダルを獲得したのです。競技後、二人はお互いを称えあい、腕を組んで退場しました。ナチスによる人種差別主義の影響から「ヒトラーの大会」とも呼ばれたこの大会。人種を越えたスポーツマンシップに対し、ロングには、死後ピエール・ド・クーベルタンメダルが贈られました。

ルッツ・ロング
1913~1943/1936年ベルリン大会 陸上競技/男子走り幅跳 銀。
ドイツの男子陸上競技選手。ベルリン大会では地元ドイツの期待を背負った。大会後、弁護士として働くものの、第二次世界大戦で前線に従軍し、わずか30歳で死去する。

ジュシー・オーエンス
1913~1980/1936年ベルリン大会 陸上競技/男子走り幅跳 金。
アメリカ、アラバマ州で生まれる。陸上で実力を認められ、オハイオ州立大学に入学。ベルリン大会では100m、200m、4×100m、走り幅跳びで優勝し、4冠を達成した。

互いの健闘を称えた「友情のメダル」

5時間を超える、熱戦の末に。

1936年ベルリン大会、男子棒高跳びに出場した西田修平と大江季雄。二人はもはや「日本人同士で争うことはない」と、2位、3位決定戦を辞退しました。表彰式では、後輩の大江に2位の表彰台を譲った西田。次の東京大会へ向けて後輩の背中を押す、激励の気持ちからだったといいます。しかし公式記録では、先に成功した西田が銀、続いて大江が銅と判断されました。これを受けて両選手は互いの健闘を称えあい、メダルを半分ずつつなぎ合わせることにしたのです。この「友情のメダル」は後に大江の遺品からみつかり、広く知られることとなりました。

西田修平(にしだしゅうへい)
1910~1997/1936年ベルリン大会 陸上競技/男子棒高跳 銀。
和歌山県那智勝浦町出身。早稲田大学卒業。後年も陸上の啓発活動に貢献し、那智勝浦町唯一の名誉町民となった。

大江季雄(おおえすえお)
1914~1941/1936年ベルリン大会 陸上競技/男子棒高跳 銅。
京都府舞鶴市出身。慶應義塾大学卒業。その後の大会での金メダルを期待されたが、第二次世界大戦中の1941年フィリピン・ルソン島で27歳の若さで戦死する。

泳いで、泳いで、日本人女性初の金メダリストに

日本中を熱くした「前畑ガンバレ!」

1932年ロサンゼルス大会で銀メダルを獲得後、両親を亡くした前畑秀子。兄が生活を支える状況から「引退」の文字がよぎるも、周囲の期待に押され現役続行を決意します。そして1日に2万メートル泳ぐ猛練習を、来る日も来る日も行ったのです。そんな前畑の努力は、翌ベルリン大会で報われることになります。女子200m平泳ぎに出場した彼女は、日本人女性として初の金メダルを獲得したのです。決勝をラジオ放送で実況中継したのは、当時NHKアナウンサーだった川西三省。彼の「前畑ガンバレ!」の23回に及ぶ連呼は、壮絶なデッドヒートを伝えた実況として今も語られています。

前畑秀子(まえはたひでこ)
1914~1995/1936年ベルリン大会 水泳/競泳女子200m平泳ぎ 金。
和歌山県生まれ。1928年に14歳で地元の小学校高等科に入学。1929年、東京の大会で日本新記録をマークし、ハワイで行われる全米女子水上競技選手権、平泳ぎの100mで優勝、200mでは2位の成績を挙げる。1932年ロサンゼルス大会で銀メダルを獲得する。1936年ベルリン大会で200m平泳ぎに出場し、日本人女性として五輪史上初の金メダルを獲得した。

日本人女性アスリートの原点となった銀メダリスト

凄まじい覚悟が、未来を切り拓いた。

初めて女子陸上競技が採用された1928年アムステルダム大会に、唯一出場した日本人女子選手が人見絹枝です。彼女は国際女子競技大会での個人総合優勝経験から金メダルを期待されたものの、100mでまさかの準決勝敗退。このままでは日本に帰れない。その思いから監督の竹内広三郎に嘆願し、エントリーしていながら一度も練習をしたことのなかった800mに出場します。予選通過後の決勝前夜、彼女は決死の思いで祈りました。「どうか明日、走る力を与えてください。明日、走らせていただいたなら、あとはどうなってもかまいません」そして迎えた翌日。壮絶な決勝レースを走り抜き、人見は見事銀メダルを獲得したのです。その後彼女は、日本からの女子選手派遣のために指導者、新聞記者として活動します。しかし病に倒れ、わずか24年でその生涯を閉じました。

人見絹枝(ひとみきぬえ)
1907~1931/1928年アムステルダム大会 陸上競技/女子800m走 銀。
岡山県岡山市生まれ。岡山高等女学校4年生の時、陸所競技大会に出場、走り幅跳で当時の日本記録を超える4m67cmを跳んで優勝。アムステルダム大会陸上女子800mで日本女子初のメダリストとなり、同郷の有森裕子が1992年のバルセロナ大会でメダルを獲得するまで、人見の後に続く陸上女子メダリストは出ていなかった。

変わり続けるオリンピックとパラリンピック

2020年は、クーベルタンが近代オリンピックを復興してから124年。人々はクーベルタンの唱えたオリンピズムの実現に向けて常にチャレンジを続けてきました。2020年の東京大会でのチャレンジはどのようなものになるのでしょうか。

女性参加の増加と性別を超えた公平・平等な参加に向けて

2017年IOC臨時理事会で、2020年の新種目が決定。野球・ソフトボール・サーフィンなどが追加されたほか、卓球や柔道での「男女混合種目」が増加しています。これは、2014年策定「アジェンダ2020」において、女性の参加率の50%の実現を目指すこと、男女混合団体種目の採用を奨励することが示されるなど、男女平等を推進することが提言されたことをもとに、「男女の参加比率を同等にする」という目標に向けて実現したものです。

男女混合種目

東京2020オリンピックでは、卓球の混合ダブルス、柔道の混合団体など、男女混合9種目が増えるなど、33競技339種目が実施されます。これにより、東京2020大会での女性参加比率は48.8%に向上します。

オリンピック出場選手に占める女子選手の割合

オリンピック出場選手に占める女子選手の割合

出典:男女共同参画局

女性が初めて参加したパリ1900オリンピックの女子選手は全体のわずか2.2%でした。それから120年の歳月を経て、ようやく男女同数に近づくことになります。オリンピックでは今後も「性別を超えて公平かつ平等なオリンピック」を目指した活動が進められます。

競技や社会で輝き続ける女性アスリートたち

日本人女性初のメダリスト
人見絹枝(ひとみ きぬえ)

  • 1907年生まれ。大阪毎日新聞社に就職。
  • 新聞記者をしながらアムステルダム1928オリンピックに出場。
  • 800mで銀メダルを獲得。日本人女性初のオリンピックメダリスト。
  • 偏見と戦いながら、日本女性の存在を示すとともに、スポーツジャーナリストとしても活躍した。

メダリストから国会議員へ
橋本聖子(はしもと せいこ)

  • 1964年東京オリンピックの年に生まれたため聖火にちなんで聖子と名付けられた。
  • アルベールビル1992冬季オリンピックにおいて、スピードスケート女子1500mで銅メダルを獲得。
  • 1995年参議院議員選挙にて初当選。東京2020大会招致のキーパーソンの一人であり、現在は日本オリンピック委員会副会長として活躍中。

冬季パラリンピック 日本人初の金メダリスト
大日方邦子(おびなた くにこ)

  • 冬季パラリンピック5大会連続出場し、アルペンスキー競技で合計10個のメダルを獲得。特に、長野1998冬季パラリンピックの滑降で獲得した金メダルは、冬季大会史上、日本人初の金メダルとなった。
  • パラリンピック出場選手有志による選手会、「日本パラリンピアンズ協会」副会長を務めるほか、若手選手育成にも尽力。

選手としてのみならず、多方面で活躍中
田口亜希(たぐち あき)

  • 射撃日本代表として、3大会連続でパラリンピックに出場(アテネ、北京、ロンドン)。
  • 2010年アジアパラ競技大会で銅メダルを獲得。
  • 東京2020組織委員会アスリート委員、東京2020聖火リレー公式アンバサダーを務める。
  • 2018年5月、世界パラ射撃連盟の選手代表に就任。

パラリンピックを通してインクルーシブな社会をつくるために

パラリンピックで躍動する選手たちの姿は、私たちに感動や希望だけでなく、障がい者への心の意識や考え方について気づきを与えます。「インクルーシブな社会を創出する」。この実現のため、パラリンピックができることは何でしょうか。パラリンピックはこれからもさまざまな進化を遂げていきます。

ボッチャ(TOKYO2020)

義足アスリートのレジェンド・山本篤が語る、東京2020パラリンピックのインパクトとレガシー(パラサポWEB)

公平に競い合えるためのさまざまな工夫

パラリンピックは、さまざまな障がいを持つ選手が参加できるよう、持ち点制を導入するなどのルールの工夫や、アーチェリーでは、腕に障がいがある方でも、口や肩で弓を引けるといった用具の工夫があります。また、クラス分け精度を導入することで、公平に競い合えるようにしています。パラリンピックは、現在もグッドマンの理念を受け継ぎ変化を続けているのです。

リオ2016パラリンピックの100m走決勝は男女合計30回!
陸上競技では、障がいの種類や程度、運動機能に応じてクラス分けし、レースが行われます(柔道が体重別で競い合うのと同じ考え方です)。例えば、リオ2016パラリンピックの100m走では、男子16クラス、女子14クラス、合計30クラスあるので、決勝戦も合計30回実施されました。

パラリンピック競技 陸上競技(TOKYO2020)

女性選手や障がいの重い選手の参加枠増大へ

IPC(国際パラリンピック委員会)は、近年男女の参加比率をできるだけ同等に近づけることを目指しており、新種目として、陸上競技や水泳の「男女混合リレー」の採用が予定(☆)されているなど、東京2020パラリンピックでは女子の参加枠が史上最多となります。また、障がいの重いクラスの選手の参加枠も増やされ、より幅広い選手の参加や活躍が期待されています。
(☆)2019年7月現在、水泳「4×50m 20ポイント リレー」は確定